予告編
以下は、放送開始前に予測して書いたものです。間違っている情報などなどあるかもしれませんが、当時、予測したことをそのまま書いています。
あくまでも管理人の想像なので、そのあたりはご容赦を。
あらすじ(いろいろなテレビガイドを読んで推測してみました) |
独断と偏見でこんな感じかなとまとめてみました。 ※( )内の年は、『日本書紀』に記載の、その事柄のあった年です。 【第1部】 ドラマはどうやら585年、伊真が日本(倭国)に送り込まれるところから始まるようです。スパイとして馬子に近づいた伊真は厩戸皇子と出会い、2人は親密になっていきます。 第1部では、ここから蘇我馬子、物部守屋の2大豪族の勢力争いを描き、父である用明天皇の崩御、そして馬子・守屋の戦い(587年)へと物語は展開していくようです。 【第2部】 第2部は、新羅出兵の問題を軸に物語りは展開する様子です。 新羅出兵を強引に推し進めようとする馬子に対し、当然新羅のスパイである伊真は暗殺をしかけますが失敗。これを仲が悪かった大王(崇峻天皇)のしわざと見た馬子は崇峻天皇を暗殺します。(592年) 代わって大王位についたのは額田部皇女。初の女性の天皇である推古天皇が即位します。(592年)そこで天皇を助ける役目(いわゆる摂政)を頼まれた厩戸は、新羅撤兵を条件に引き受けます。 厩戸は新たな外交政策として遣隋使を派遣しますが、相手にされませんでした。(600年) そんな中、馬子の新羅出兵計画は着々と進み、厩戸の弟・来目皇子を将軍としてついに出兵は実現します。(602年)そして、その野望のために対立要因を次々と消し去ることになり、来目皇子もその毒牙にかかり暗殺させられます。(603年) 弟を殺されキレた厩戸は、馬子を殺しに向かいますが、刺した剣の先が馬子の懐にあった仏像に当たり失敗。そこで加勢に出た親友・伊真は馬子の護衛に切りつけられて死んでしまいます。 そんな失意の厩戸は、馬子に対する抑制力を身につけ、次第に実を結んでいく。そして、隋から友好施設が日本にやってきた。(608年) このあたりでどうやら終わっているようです。 |
やんの独断と偏見の解説 |
【衣装】 番組内で使われている衣装等は、でき得る限り当時のものに近いものの復元を試みたようです。飛鳥時代も最初のころは、まだ古墳時代を色濃く残している時代ですし、当時の古墳からの出土品なども残されています。様々なことから考証して復元されたのが今回の衣装だそうです。このあたりは、とても楽しみなところの一つです。 先週号の「ステラ」に一部紹介されていました。 例えば、鎧は飛鳥寺から発掘されたものを忠実に復元したそうです。古墳からも似たような鎧が出土されています。これは鉄を革で編んで作ったものです。ドラマでは、当時の最新モデルを金・銀仕立てにして作ったそうです。完全に再現すると重さは約20キロだそうです。(うっ、肩凝りそう) それから、推古天皇がかぶっている冠は、藤ノ木古墳から出土したものを参考に作っているそうです。 その他にも、写真、ドラマの番宣などを見ると、彼らがつけている装飾品、刀の形など、古墳や寺院跡から出土されたものを元に復元している様子がうかがえます。 ちなみに、厩戸皇子の髪型は角髪(みずら)といい、当時の少年の髪型です。うちのサイトのトップにあるうまやどくんも同じ髪型です。また、服装もほぼ同じ服装をしているのに気づいてもらえましたか? 天寿国繍帳に出てくる人の服装なんです。 【厩戸の年齢】 どうやら、第1部は585年から587年の2年ほどを描いているようで、やはりクライマックスは蘇我・物部の戦いでしょう。 戦闘シーンは奈良県曽爾高原でその多くがロケされている模様です。(飛鳥時代の面影を求めたら、そんなところまで行ってしまったらしい) その他、奈良公園内でもロケをやっていたようですし、四天王寺でもやっていたのかな?) ところで、厩戸皇子の年齢ですが、厩戸は生年が敏達元年(572)説と敏達3年(574)説の2説があります。 このドラマの中ではどちらをとっているのかはわかりませんが、前者をとれば厩戸皇子14歳から16歳を描いており、後者をとれば厩戸皇子12歳から14歳の設定となります。 厩戸の少年時代の役として浅利陽介くん(彼はちょうど14歳)を起用しているようですが、彼をこの最初の場面で出すのか、それとも追想シーンなどで出すのかはわかりません。 いずれにせよ、蘇我・物部の戦いのときには本木雅弘さんが厩戸皇子を演じます。少年太子を彼らがどう描くのか、ちょっと楽しみです。(ただし、昔の14歳(16歳)ですから、今の14歳(16歳)よりはずっと大人っぽかったと思いますが... がんばれ、モックン) 第2部では、少し大人になった太子を描きます。崇峻暗殺時点で太子は19(または21)歳。ドラマの最後の部分と思われる隋から使者が来た時点では太子は35(または37)歳になっていますから、ようやく本木くん等身大の厩戸皇子になれますね。(^.^) かなりりりしい写真が出回っていますので、ちょっと期待に胸を膨らませています。(美しい人は何をやっても美しいからいいわね) 【史実と脚色】 今回は池端氏のオリジナル脚本です。池端氏がどんな厩戸皇子像を描いていくのかは、とても楽しみです。以下は、あくまでも『日本書紀』と比べてみた私の独断と偏見の解説です。 <伊真> まず、伊真という人物はこのドラマのための全くのオリジナルキャラクターですので、実在の人物ではありません。ただ、今回はこの伊真という人物がかなり軸になっている様子です。どんなふうに描かれているのか、とても楽しみです。 友人が、大河ではオリジナルキャラクターを使うと難しいと言っていました。さて、今回はどんなふうになるのでしょうか。 =第1部= 第1部では、基本的に蘇我・物部の戦いを中心に物語が展開していく様子なので、そんなに作ったところはないのではないでしょうか。(詳しいストーリーがわからないので...) <蘇我・物部の戦い> 時代の中で権力を争い合ってきた蘇我氏と物部氏。用明天皇崩御後、ついに蘇我と物部は戦争をすることになります。この経緯については、『日本書紀』の中にもかなり詳しく書いてあります。(崇峻天皇の即位前紀に出てきます。今回は時間がなくてごめんなさい。そのうち解説します) 番組宣伝の中で厩戸皇子が頭に四天王をくくりつけて戦勝祈願をしているシーンがありました。何だか嘘っぽいですが、これはちゃんと『日本書紀』に出てくるお話です。 物部は兵力を誇った豪族ですから、蘇我側(厩戸はこっちです)は最初は苦戦をします。そんな中で、厩戸皇子は白膠木(ぬりで)の木で四天王を作り、それを頭にくくりつけて「今もし我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四天王の奉為に、寺塔(てら)を起立(た)てむ」と誓いを立てます。そして、四天王のお陰で蘇我軍は勝利をおさめるということになります。そして後に立てたのが大阪にある四天王寺です。 その他、蘇我・物部の戦いについてはいろいろと説話も残っています。やはり太子伝にとっての一つのクライマックスなのかもしれません。ドラマの内容の詳しいこともわからないので、これはドラマが終わったら、少し比べてみたいと思います。 =第2部= 第2部は、『日本書紀』の記述を軸に、かなり脚色を加えておもしろくしています。だいたいの流れは『日本書紀』の記述に沿っています。 <崇峻暗殺> まず伊真が馬子を暗殺しようとした、これは伊真自身がオリジナルキャラクターなので史実ではありません。 ただし、馬子が崇峻天皇を暗殺したということは、日本書紀にも堂々と書かれています。 ※『日本書紀』崇峻天皇5年11月3日の条に「東漢直駒をして、天皇を弑せまつしらむ」とあります。 <推古天皇即位> 推古天皇が即位し、その4か月後に厩戸皇子は皇太子となります。このときの日本書紀の記事に「仍録摂政」の一文があり、これで「聖徳太子は日本で最初の摂政です」と昔は教えられたものです。しかし、この時代に「摂政」という役職はなかったというのが現在の通説です。天皇になり代わり、いろいろな政をしたという意味でしょう。 さて、このときになぜ推古天皇が女性でありながら皇位についたのか、なぜ聖徳太子が天皇にならなかったのかという話をめぐっては、いろいろな議論が飛び交っています。さて、なぜなんでしょうねぇ? ただし、厩戸が新羅出兵の取り消しと交換に引き受けたという話は、『日本書紀』にはありません。 <来目皇子> それから、来目皇子が馬子に暗殺されたという話は書紀にはありません。以下に、『日本書紀』に載っている来目皇子の記述を掲げておきます。 来目皇子は厩戸と母を同じくする弟です。 推古10年2月1日に新羅を撃つ将軍なります。 4月に筑紫に着きますが、6月には病に臥してしまいます。これによって、征討は断念されます。 そして翌年2月4日、筑紫にて来目皇子は亡くなります。 皇子は周防国にて殯され、後に河内埴生山岡上に葬られます。今でも山口県防府市の桑山には来目皇子の墓があると伝えられていますし、大阪府羽曳野市には来目皇子の墓とされている古墳があります。 <馬子との対立> 今回は第2部で、いろいろな意見の対立から弟を殺されてついにキレた厩戸が馬子を殺しに行くという対立に発展する姿を描いていますが、実際にはどうだったのでしょう。直接的に厩戸と馬子が対立したという話は『日本書紀』には書かれていません。さまざまな歴史学者の間でも、対立していたという人、そうではなくて一緒にやっていたという人、さまざまです。いずれにせよ、この時代は実際の資料が少ないので、この対立がどうだったのか、知る由はありません。 <遣隋使> ドラマの展開から、最初に半ば失敗状態の遣隋使は600年に派遣されたものと思われます。これは『日本書紀』には記述はなく、隋の歴史書である『隋書倭国伝』に600年にも派遣があったことが伝えられているのみです。 ドラマの最後と思われる隋からの使節の派遣は、607年に渡った遣隋使のお礼として来たものです。この607年の遣隋使派遣は日本側の『日本書紀』、中国側の『隋書倭国伝』にも伝えられており、小野妹子が遣隋使として派遣され、裴世清が隋からやってきます。このときの『隋書倭国伝』の記録の中に、日本側からの書の一節として有名な「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に至す。つつがなしや」というものが登場します。 あくまでも『日本書紀』の記述と比較してみました。 ただし、聖徳太子の伝記は後世に数多く書かれ、伝説も数多く残っていますので、そんな中に脚色と思っている部分がはあるのかもしれません。また、これが池端氏のオリジナルのストーリーであったとしても、これがまた一つの「平成の聖徳太子伝」となっていくのかもしれません。聖徳太子の伝記は今までもそうやって多くの人に作られ、語り継がれてきたのですから。 以上、独断と偏見と想像でいろいろ述べてみました。あとは、ドラマを見てのお楽しみということで... |